「Do you have a permanent marker?」
突然、見知らぬ女の子に声をかけられました。油性のペンが必要な様子。たまたま持っていたのでそれを渡すとその子は大喜びで、「Thanks! I’ll be back」と大急ぎで駆けていきました。その行く手を目で追っていると、だぼだぼのTシャツにだぼだぼのジーンズ、キャップをかぶったラッパー風の若者を駐車場手前でキャッチし、ペンを手渡して何やら書いてもらっています。目を輝かせて戻ってきた女の子に「あれは誰?」と聞くと、
「ガトリンよ! サインをもらったの」と、銀色のリレーバトンを見せてくれました。2004年アテネ五輪100m、2005年ヘルシンキ世界選手権100m200mを制した、ジャスティン・ガトリン。人ごみのなかで突出するほど体が大きいわけではないし、普段着だし、まったく気付きませんでしたが、まさに旬のスプリンターがそんな目と鼻の先の距離にいたなんて…。「私にもサインくださーい」と追いかけようか…と考えているうちに、彼はもう見えなくなってしまいました。
4月15日、今年のマウントサック・リレー最終日の出来事です。
陸上競技に興味がある方はもちろんご存知でしょう。米国内外からトップアスリートが集う、長いシーズンの始まりを告げるビッグイベント。日本からもエリート選手が出場するので、新聞・雑誌などでその模様が伝えられていると思います。
マウントサック(Mt.Sac)とは、マウント・サンアントニオ・カレッジ(Mt.
San Antonio College)の略。私が通うエルカミノと同じカンファレンスに属するコミュニティ・カレッジの一つで、とくに体育系のプログラムが充実した学校として知られています。
去年も、カリフォルニアにいるからには見ておかねばと、このヒルマー・ロッジ・スタジアムに来ましたが、今年はもっとじっくりと“マウントサック・リレー”を観察しました。48回を数える伝統行事となったこの大会は、いわばトラック&フィールドのお祭りです。(マウントサックリレー“トリビア”……1989年から、バルセロナ五輪前で大いに盛り上がった92年大会まで、メインスポンサーは日本の自動車メーカー、マツダでした)。
イベントはYouth Days(少年少女競技会、陸上競技教室、幼小児ラン)からスタート(今年は3月31日から)。
このプログラムは、少年少女たちに陸上競技というスポーツを楽しんでもらい、未来のオリンピアンを育てよう、というスローガンのもと開催されています。
そもそも、1984年ロス五輪の成功に基づいて設立されたロサンゼルス・アマチュア・アスレティック基金(AAF)が、その給付先として最初に選んだのが、西海岸で米国陸上競技界の発展に貢献してきたこのマウントサック・リレー大会。そのAAFの助成金によって、このYouth
Daysは実現しました。競技会は小学校低学年、高学年、中学校の年代別になっていて、短距離、中距離、跳躍、投擲、リレー種目があります。参加料は小学生は無料、中学生5ドル。そして参加者はTシャツとバッジ、参加証と、マウントサック・リレー本番のチケット(通常、4Daysチケットは大人30ドル、5歳以下無料、6〜13歳は1Day5ドル)とプログラムがもらえるのです。
そして4月8日は、4歳から12歳の子供たちのランニング(1マイル、ハーフマイル、400m)イベント。この日はコミュニティカレッジ・ディビジョンの競技日ですが、その前に小さなランナーたちの出番があるのです。実はわたくし、エルカミノ大の一員としてその場にいたのですが、もうすっかり“アスリート”気分の小学生、よたよたとトラックからコースアウトしそうになる4歳児に、必死の形相の父兄に混じって声援を送っておりました。
このYouth Dayの行事が終わると、4月8日=コミュニティカレッジ部門、13日=大学・エリート・オープン部門、14日=大学・高校・エリート、15日=高校(一般・招待)・エリート招待という日程で競技が行われます。
最も盛り上がるのはやはり最終日。4×100mリレーで第4走者ガトリンが怒涛の勢いで追い上げたり、地元出身の2003年世界選手権女子100m覇者のトリ・エドワーズが200mを22秒台で駆け抜けたりすると、大観衆が一斉に立ち上がって歓声を上げます。でも、そういう一流のパフォーマーに対してだけでなく、男女マスターズの100m走にも、一般高校生の競り合いにも、あたたかい拍手と声援が送られるのは、とてもいい光景です。どんなレベルであってもベストを尽くす姿は尊いものなのだということを、この観客席にいる人たちは知っているんだな、と思いました。また、一流の選手と同じ空間を共有するという経験は、無限の可能性を秘めた高校生たちの人生を少なからず動かすはず。マウントサック・リレー大会は、その理念をきちんと形にしている、と言えるのではないでしょうか。
そんな大会に、今年は去年よりもたくさん日本選手が大勢出場し、活躍していました。関西学院大学陸上部時代の恩師で、現在早稲田大学競走部監督の礒繁雄教授も初めて同行され、とくに卒業生である女子短距離・信岡沙希重選手、棒高跳の錦織育子選手の日本新が可能性十分とおっしゃっていたので、エキサイティングな観戦でした。客席に一人で座っていると「日本人? あの速い子の友達なの?」と何度か聞かれ、「お友達だなんてとんでもない、とっても有名な選手だよ」と説明することもしばしば。欧米選手と肉感が違いとても華奢にみえる日本人選手が、遠く高く跳んだり、速く走ったりできるさまは、アメリカ人にはとても刺激的なのでしょう。
日本国内での春季サーキット開幕に先立ち、今回のアメリカ遠征を敢行された礒監督は、マウントサック・リレーについて「温暖な気候と場の雰囲気で好記録が出るという噂どおりの大会」と感じられたとのこと。「学生(100m200m・相川誠也選手、800m・相川芳弘選手、三段跳・竹内敦史選手)はシーズンに向け上位争いをするための、信岡(100m200m・信岡沙希重選手)と大前(100m200m大前裕介選手)はさらに上を狙うための、冬季トレーニングでやってきた課題の確認ができた」と、実りある遠征だったと語っておられました。
山に囲まれた大学の一角にあるスタジアムは、1センチでも遠く、0.01秒でも速く、一瞬前の自分を越えようとする競技者と、その瞬間を見たいと思うファンが集います。来年もこの雰囲気を味わいに来ようと、そしてこんどは、日本人選手が子供たちにサインを求められているところを目撃したいと思います。
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